心(或いは自分・私)は、自分が在ると知っている、自分自身に気付いている。
感覚や欲求や気分・感情や思考・想像と云った心に起きる事柄、 それらが起きる事そのものが、自身が在ると示すのか。 付きまとう身体の不快、何らかの嫌な気分、どうにもならない感情、執拗に想起される事柄、 それらが、あんたはどうしようもなく在るのだ、と言うと。 しかし心に生起するものがいつも自身を思い出させるのでもないとも思える。 (自分と云うのは、思い出さなければならないようなものなのか)。
或いは、自分と云う感覚の様なもの、自分の感触と云うか、在ると云う感じの様なもの、 それを感じるから自分が在ると判る様なものがあるだろうか、判然としないが。
どうであるにせよ、何か 自分が在ると感じ思わされる様な、自分を捕らえている様な、自身に気付いている時がある。 自分の事(自分のあれやこれや)を考えている時と云うのとは少し違う、 むしろ考え込んでいる時は、その自分は忘れられているかも知れない (それでも、問題が生じている自分がある方が、そこに近いかも)。 ただ、ふと手を休めて何を見ると云う事もなく(心、内界を)眺めているだけかとも思うが。 (なにか大げさに語られるものや強い情動を伴う様なものは、違う事の様に思われる)
それが自分を捕らえている様な時・状態(に現れるの)だとしたいが、本当に そう云う様に取り出せるのか、析出してもいいものなのかどうか。
それは錯覚や先入観の類なのではないか。 見ている者(頭の中でさらにモニター画面を監視している者?)が居る訳ではなく、 ただ心に生起する様々が在るだけだ、と。 或いは例えば、そういう中心はあるにしても、それはその度に、あちこちで生じると、 たまたま同じ様なものが想起されているから、同じ(私)だと見えるだけだとか。
取敢えず、そう云う一つの同じ(かどうか定かではないが)見ている者の様な奴が居るとして、 それがしているのは、見ている事、受け取っている事である。
と云うより只あるいはまず、見ている、受け取っていると云う事が、ある。
自身に気付くと云うのも、受け取っているものの中に、自身の感覚があったり その見ている・受けている時の感覚があったりするからと云うだけの事かも知れない。 それが自分とか見ている者と云う意味合いを持ってしまったからと云って、 見ている者はその意味合いもただ受け取っているだけだと)。
自分に気付いていると云うのは、 自分を自覚している、自分を知っている、何者かとか、どうであるかとか、身の程をわきまえているとか、 そういう内容に関する事なのかも知れないが、 それ以前に、取敢えず何だか判らないが自分が在ると云う類の自覚、 自分が在ると知ってしまっていると云う意味合いもあるかも。
自分というのは、自分には確かに明らかに在る。 生れ(突き)落とされて成長過程のどこかで多分、 自分と云うものを得た、自分が在る事を知った、のだとは思うが。 (気付いた時には在った、か)
しかし多分、その自分と云うものを指差す事、つかまえる事は、できないかも知れない、と。
たとえば「本当の私」と言う時、指されているのは何なのか、とか。
改めて見ようと(反省・内省)すると、それが何であるのか、はっきりしない、判らないと。
自分(自身)である事・自分が在る事は、感覚の様なものなのか、
考える前から明らかな事なのか、根拠のない確信・信仰・先入観の様なものなのか、等々。
まわりから見て私とされる・名指される私、自分が自分の姿と見るもの、
「自分をどのようなものだと思っているか」と問われた場合の答えであるようなもの、
対象とされる様なもの、取り替え(着せ替え)可能なもの(実際に可能かは別として)。
自分に付きまとう諸々、或いは自分の内容、或いは価値(値段)、
名前・地位・能力・外見・属性・演技・(仮の)姿・在り様、
する事・行為、考え・思い・感情・動機、、
それら全てを私ではないと捨て去るのは不自然だろうけれど、 どれ位かは、私ではないと言うのはごく自然で、 「私がある」より弱いかも知れないが、多分似たような確信として「それらは私でない」。
そういうものを取り去り、詰めていって、残るもの・地点。そこには、何もないとなるが。 (玉葱を剥いていくと..に喩えられたりする話)。
社会的に何者であるか(価値や効能・身分証明)以外の答えを、一体誰が何の用で 求めたりするのか (と云えば、宗教か心理療法の詐欺かと勘ぐってしまうが)。
自分が何者であるか(の認識、イメージ)とは、 周り(社会や自然)への処し方(反応や行為)の全体を表す(暗示する、手繰り寄せる)ものではないか。 実効のあるもの、現実的、実際的なものだと。
そうすると、問いの生じる所は、只の考えのレベルでなく、何か現実的な亀裂のある所となる。
「それらは私ではない」と否定する時、 そういう問い方=撤退が実際に起きてしまう時と云うのは、 それら(処し方の体系)が用を為さない、無効である、私が無能である、 そういう外的状況が生じている、 或いは手繰り寄せる機能の方に障碍が起きている、とか。 (奇怪な修復、価値の回復が為されている様に思われる時も、 そう云った撤退・破損があったのかと、、)
よりふつうの言葉にすれば、気付き、か。
気付いている事は、何かに気付いている事で、気付かれているもの(対象)がある。
(気を失っていた人が、気付いた時、無理に対象を言えば、周りに気付いた、と)。
個々の対象について、ある/ないと言う場合は、 それに気付いている/いない、それについて意識している/いない、 何かが其処にそのようにある事を知ったか/まだ知っていないか。
失う/戻るのは、 そう云う事(個々の気付き)が起こる全体の場所か働きが、今あるかどうか、か。
個々の気付きは、そう云う全体、気付きの起こる所・気付いている自分への気付きへ 繋がっているか、すぐ反転し得るものとしてある様に見える。
眠りは、気を失うとはあまり言わないが、
その最中は多分ふつうには、意識がない、無理に言えば気を失っていると言えそう。
しかし、夢見の時、意識や何かへの気付きがないと言えるのかどうか。
そこで失われているのは、(起きてる人の)外界への意識・気付きではある。
気付きと言うには、その外界が必要か、
それとも気付いている事に気付けるとか、気付いている自分に
気付けるとか云う事が不足なのか。
しかし夢の中で何かに気付いたりはするだろうし、自分というのもあったりするが。
気を失っても、何かに対して心の動きは可能と言っていいものかどうか。
(何かに対して心が動くには、何かへの気付きが前提か)。
知らずにしてしまう事と云うのがあるし。
何かが其処にそのようにある事を知ってそれに対し何かを為し、
しかも、それを知らない、気付きがない。別人が知り為したとするのが簡単か。
実の所、何かを考えていた時、何かをしていた時、 意識や気付き(と言っていいのか判らない)が、その時あったのかどうか、 定かではない様に思う。
物思いに耽る → ふと我に返る。
その我に返る前に、私は何かについて、意識を持っていた、考えていたか、感傷していた。
がそこに我・私が、見当たらない。
(或いは、その時、ふつうの意味では意識を持っていなかったのか。
考えていたからと云って意識があったと言っていいものか。)
ふつう我を忘れる・失うとは、自分が社会的に何者であらねばならないか、どういう振る舞いを
しなければならないかを忘れているという事か。
自分がどういうものか、どういう所に居るのか、自分と周りの諸々を
意識できる状態にある事が、「私がある」という事か?。
意識の在り方の狭まりと広がりと考えてみて、
色んな物事を見渡せる、特にこだわりの少ない、
背景として(すぐ後ろに)全体が控えている様な(準備)状態、と、
一つの物事に集中・没頭している、視野が狭窄している、ような状態、と。
耐え難い苦痛の最中で、確かに、どうしようもなく私が在る、のだと思えるのだが、
しかし、これは見渡せる・広がりのある意識の状態と言えそうもない。
意識の対象が自分である時に、見ている自分がその対象に成り得るなら、
意識している事を意識する、気付いている事に気付く、気付いている「自分(私)」を見出す。
鏡を向かいあわせる事に喩えられる様な事柄か
(判る様な判らない様な、そんな多重さは再現できないと思うが)。
そのようにして、意識あるいは自分と云う様な、この特殊な場所が
見出される(仮構される)のか。
心とは、知ったり思ったり感じたり為そうとしたりする働きを まとめてそう名付けられているのかも知れないが、 それら(思い等)が浮かぶ処・場所・容器の様な意味合い・イメージも持つと思う。 感情や思考はその内容物としてあって、入れ物として心という自分がある様な。 その場所に色んなものが去来すると言うと、心より意識と言うべきか。
最初に明らかなのは、心か意識か自分か場所か照明か言葉はともかく、
そういうものがある。
それは、思いが浮かぶ処、何かを思い浮かべる処、である、
(言葉や知識、考え、イメージ、想像、など)。
ふつうは、頭の中とか心の中と、呼ばれる所。
また、感覚や感情を感じる、受け取る場所でもある。
或いは、それらを知る所、それらに気付く所と言った方がいいか。
私がその思いを持った(持たされた)、それを感じたと、
私にそれが起きた、起きていたと知る所。
それの簡単なイメージは、ただの場所のようなもので、 そこにいろいろなものが、入れ替わりにやって来る。 その場所自体を「私」(の核心)と感じている。 世界は、或いは私そのものも、そこでとらえられる、知られる、とか。
何かをしている最中に、「そこ」が意識される事はない、或いは「そこ」はない。
心が内容物によって満たされている・占有されている時、
(思考や空想という作業や、感情や感覚が強要するそれらの作業の最中に)、
それ(そこ・私)は生じないようにみえる。
何かをしていた、占領されていた、憑かれていた、と云うのは、後から知らされる。
勿論、現実的には、そうきれいに二分されないし、
何かをしながら(特に身体的な動作なら)、同時にしている事や自分に
気付いているのも普通の事ではあるだろうけれど。
耽っている、熱中している、夢中である時、には現れない。
うまくいってる時、順調な時、には現れない(とは言い過ぎ)。
外へ向かっている時、行為に入り込んでいる時、には現れない。
行為が中断された時、立ち止まるとある様なもの、
する事(行為)の手前に現れるもの。
否定的な言い方に変えれば、滞りで生じるもの、よどみの中で幽霊の様に見え隠れするもの。
手を出せない様な、身動きの出来ない様な、対策の尽きた様な所で、現れてくるもの。
行動の妨害、作業の停滞、出口の閉鎖、過剰な入力、と云った事態が生み出すもの。
行為と切り離されて在る、 何にも働きかけられない、孤立した空間。 しかも、そこはいつも私であるし、私にしか見えない所としてある。 決して明かされないプライベート、共有など在り得ない、誰にも盗めない、私有。
場所と云うのは、周囲と分けられていると云う事だが、 際立てれば、隔てる、封じる、閉じ込める。 私を閉じ込める牢獄、「私」はそこでしか捕らえられないし、そこから出て行く事もできない、 私が在る限り。
痛みや苦しみを受け取る場所、責め苦を受ける刑場。 する事・行為と切断されている場所であるという事と合わせると、 手足はない(組まれている)か、釘付けにされている、 そういうイメージと重なるかもしれない。
「そこ」は何かが感じ取られる場所でもある。
様々な感覚や感情や欲望を、感じ取る、受ける所。
何かが為される所ではなく、受け取る事だけが可能な場所、か。
気付くと云うより、やってくるものに気付かされる、か。
訪れるものに呼ばれ、扉を叩かれて、「そこ」や自己が生じるのか。
気付くと云うと、ただ感じているより以上の意味があるように思える、
感じている対象の判別とか、知的行為の様な意味合いとか、
或いは、感じている事に気付くとか。
でも、判別されたものも、感じる・受け取るものの中にある様に思える。
(作業は我を忘れた所で為されると。
作業結果は受け取るものの中に入れ込まれる、と)
また、ただ感じる事の中に、感じている事を感じる・気付く事へ繋がるものがある様に思える。
「そこ」は確かに在る様に見えるが、 見えなくなっても隠れて常に在るとかは、言えない。 或いは、それが「そこ」として、いつも同じものとして、 また自分の核心の様なものとして、見えるのも、あやしいかも知れない。 在るのは、ただ感じられている感じのみで、 「そこ」と云うのは、後付けか。 単に同じような感覚(例えば持病の痛みや不快感)があるから、 いつも同じ一つの所と、とらえられるだけだとか。
意図的に「そこ」に留まろうとする事。 気付く・感じる・受ける事をしようとする、少し継続させようとしてみる。
受け取られているものに、注意/注目する・意識を向ける。 感じられている感じを、受け取られているそれらを、感じてみる。 既に感じられている、受け取られているそれらに、注意を向けてみる。
すると云う事、作為と云う事は、嫌いと云うか抵抗があるが、 注意を向けるとは、する事(行為)の中では、もっとも軽作業ではないか。
もっとも、それが何になるのか、と問われると困るが。
究(窮)極的な撤退、引きこもり。 「それらは私ではない」としていった時、残るのは、ここしかないのではないか。 勿論、受けている"感じ"が私と云うのでなく、受けていると云う事があるのみだが。
受苦の場所。
感覚の訓練、拡張、快感を増やす為、になるかどうか。