どうにも、まとまらないので、中途のまま。2003.2 ***********************************意識、自分などについて
現われている、意識している、経験している、という事。 見ている、感じている、知らされる、受取られている、気付いている、 こうむっている、さらされている、、、など。 見えていたり聞こえていたりするもの。身の境や内に直に感じられるもの。 気分や気持ちなどと言われるもの。考えや言葉などとしてあらわれるもの。 想像や記憶のようにそれらが合わさって心の内に出てくるようなもの。 そういったものが、重なってか、移り変わりつつか、ある。 多分、特定の何かについてのはっきりとした意識ではない。 特に何かに向いていても、それが何か、何する為か、などが意識されてはいない。 そういう分別は、判った上での事、すぐ引き出せるもの、として控えているかも知れないが。 現われているものは、散漫に移り変わる。また、今、一瞬であることしかできない。しかし 受取っているものは、既にそこにあったもの、もう起きてしまっている事と言えるかも知れない。 確かに私(自分)があると言えるような所。現われの中に自分と括られる様々があるが、 私が意識している、私に現われている、という様に私があるのかも知れない。 また、ここは、私に直にある。さらに、人には覗く事ができない私的な、 孤立し閉じられた所としてある。付け加えれば、ただ一つの所か。 ここが無いならば、多分どんな問題もない。 どんな考えも思いも疑わしく、現実も定かでないにしても、 この、現われている、意識している、と云う所には、確さがあると思わされる。 しかし、多分そこは何も説明しないし、何も生み出さない、何も変えない、何も支えない。 全ては、ここでしかあらわにならないが、ここに何かがあるわけではない、と思えるのだが。 ************************ 例えば痛いとか苦しい時、確かにそれ(感覚や何か)が、また、 それを、こうむっている私が、どうしようもなくある。 強烈なもの、圧倒される様なものがある時、あるいは、為す術も無い時や、 逃れられない私が生じてしまっている様な時、それ(感覚)は確かに(絶対的に)あるし、 それを感じている(そこから逃れられない)自分もまた確かにあると言う他ない、と。 逆に、何もする事がない、する意欲もないとか、呆けているとか、眠りに就く時、などにも、 それが見出されるかも知れない。極端な状態に置かれていなくとも別にどうということもなく、 現われ・感じられているものは、ふと意を止めれば・向ければ、そこにあるだろうし。 多分、我々はいつもそこ(現われ・意識の所)に居るわけではなく、時々そこに居るという程度か。 ふつう、そこはすぐに越えられて、する事(行為、考えたり作業する事)へ向かう、入ってしまう。 あるいは、いつも常にそこ(現われている、受取られているという事)はあるが、 より重要な考えたり作業する事が、意識の前景に来る。でなければ生きられない、と。 我を忘れて何かをしている(入り込んでいる、没頭している、集中している、耽っている等)、 例えば物思いに耽る、考え込んでいるような時があり、そして我に返る、あるいは辺りに気付く。 この違いは単純に、意識の(注意の)幅、視野のようなものの広がりの違いにもみえる。 我を忘れている時は、自分がそれをしているという事に気付いていないし、周りを忘れてもいる。 ある物事に心を奪われている、それをめぐる分別や意味の繋がりの中に置かれて、 それしかないという事だろうか。ある狭い範囲をみることで事足りるならば、 我も辺りも必要ない、むしろ作業の邪魔であると。 我もあり辺りも判っているというのは、注意があちこちに広がっている散漫な状態、 或いは、自分のしている事、諸知覚や心の動きも含めた、全般的な注意ができるような状態だと。 ただ、それら(我、事、周り)がバラバラな注意の集まりなのか、連なっている、 或いは同時に生じる事ではないかとか、など。 心や意識の中には、大まかに二つの事がある、起きているとしてみる。 一つは、現われ・像として捉えられる事。知覚されたもの、入ってきたもの、 感じられるもの、受動的である事。 もう一つは、思う事(想像する、考える)。作られる・生み出されるもの、出て行くもの、 能動的なもの、行為であるもの。現われ・像であるものが操作される事。 しかし、それが知られるには、現われとして捉えられなくてはならない筈ではある。 その時、作業(思い)の詳細を(直に)知る事は出来ないと思われる。 逆に作業が表を占める時には、それが起きている事の自覚が薄れるのかも知れない。 現われ・像である事は、作業へ与えられるものとしてある、 知覚は利用される(動いたり物を得たり思いを作る)為にある等とするなら、 像である事は、心中の作業全体の中で通って行く一箇所・一断面でしかない、 或いは作業の手前や合間にある、例えば中断される事で表に出るようなもの と言えるのかも知れない。 以前の稿 ************************ 観照などと言われる修行、瞑想があるらしい。→参考引用 河野良和の心理療法。→参考引用 ***********************************