ケン ウィルバー 『 無境界 』 1979 ( 平河出版社 1986 )
ここでは、我々の唯一の関心は、特定の苦悩を見つめることだからである。 苦悩を判断することなく、回避することも、脚色することも、働きかけることも、 正当化することもなく、ただ無垢に自覚しているだけである。 感覚や傾向が生じてきても、ただそれを目撃する。 その感覚に対する嫌悪が生じてきても、ただそれを目撃する。 その嫌悪に対する嫌悪が生じてきても、ふたたび ただそれを目撃する。 行うべき事は何もない。もし行いが生じてきても ただそれを目撃する。 あらゆる苦悩のまっただなかで、「選択のない自覚」にとどまるのである。
これが可能となるのは、いかなる苦悩も 自分のほんとうの自己を構成していないことを 理解したときである。 それらに執着している限り、いかにかすかであっても、必ずそれらを操作しようとする動きが存在する。 苦悩が自己でも中心でもないことを理解していれば、 自分の苦悩をののしることも、罵倒、憤慨することも、拒絶、あるいは耽溺することもない。 苦悩を解消しようとする動きは何であれ、自分が苦悩そのものであるという 幻想を強化してしまうだけである。
このタイプの超然とした目撃を発達させることに成功すれば、 空に浮かぶ雲、川を流れる水、屋根を打つ雨のような 自覚の場の対象を見る目と同じ公平な目で、 自分の心身に起こる出来事を見ることができるようになる。 ことばを換えれば、自分の心身に対する関係性が、他のあらゆる対象に対する関係性と同等になるのである。
これまでは自分の心身をとおして世界を見てきた。そのため心身に専一的に同一化し、 その問題、苦痛、苦悩に縛られていたのである。 だが心身を我慢強く見つめていくと、それらが単なる自覚の対象にすぎないことがわかってくる。 「わたしは心と身体と感情を持っている。だが、わたしは心と身体と感情ではない」‥‥わたしはその後に残った純粋な意識の中心であり、 あらゆる思考、感情、感覚、欲求の動じることのない目撃者である。
‥‥「旋風の中心」は、まわりを渦巻く不安と苦悩の烈風のただなかでさえ、その透明な静けさを保つ。 この目撃の中心の発見は、嵐の荒れ狂う海面の波から 静寂で安全な海底の深淵へのダイビングに似ている。‥‥統一意識においては、超個的目撃者自体が目撃されるもの全体へと崩れ去っていく。 だが、そこにいたる前に、まず超個的目撃者を発見しなければならない。 ‥‥あらゆる心的、感情的、肉体的対象と脱同一化し、 それらを超越することによってこの超個的目撃者を見出すのである。
メモから写したものなので(本を持ってないので)、実際の文章は、かなり違うかも知れない。