意識に留まろうとする事・意識であろうとする事について

意識とは、
  今、見えている、感じ取られている、受け取られているものがあるという事、
      または、何かを見ている、注意が何かに向かっているという事であろう。
    諸知覚や、心像(思いやイメージや記憶や夢など)、気分・感情などがあるという事で
      あり、あるいは、それらが在ることに気付いている事である。
    諸々 (世界(の中の色々)や己れ) が、現れている事であり、
      あるいはその諸々が、己に対して現れている、経験(体験)されている、と言える
      事でもあるだろう。( 多分、意識、経験、現れ、等は、言い換えである。)
    そこで、自分というものが見出される、自分が存在しているという事を知らされる、
      というように意識は、多分、自覚でもある。( 対象の知覚や認識は、同時に自分の
      位置を定める、何かが現れれば、それを見る者も現れる。)
  自分というのは意識としてある、意識は、苦しんでいる者(快や苦痛を感じている
      者)、経験している者として、自分自身そのものである、自己の核のようなもので
      ある、と言えるかも知れない。
    しかし一方、意識は、自分自身の中身を良くは知らないというように、自分自身から
      隔てられてもいる。行動へ向かう意思や欲求・欲望の生じる所についても、よく
      分からないし、自分の望みや気持ちと言っても、自分のものでなく被(こうむ)って
      いるものと言った方が適切かと思う所がある。
    意識へ現れた諸事物は、まがい物である疑いがあるとしても、それが自己の経験で
      あるという事 (その現れている事・感じられている事) 自体は、疑いようがない。
      そのように意識は、直接的な確かなものが現れる唯一の所であると言えるかも知れ
      ないが、その確かさは、役に立つものなのか、よく分からない( 根拠も何も無い
      世界で、その事のみは確かであると言っても、それが、不確かなものに根拠か何か
      を与えるようには思えない)。
    諸々の現れとは、つまり「全て」という事であるが、しかし、そのように唯一・全て
      と言っても、他者や自己(の動機・動因)からも隔てられて、閉じられたカプセルの
      ように見える。他者も自己も、そこ(意識)でしか知る事は出来ないのではあるが、
      しかし、動いている・生きているのは、意識ではなく、意識は、その何者か(主体)
      に付随する一部でしかない、その何者か(主体)の片鱗が、意識には事後的に知らさ
      れるだけなのかも知れない。

述べようとしている事は、意識とは何であるかとか、それにどんな謎があるかとかいった
    ような知的な問題ではなく、意識に関わるある行為についてである。
  それは一つには、宗教での修行や、心理療法などとしてある。(→述末、§参考 )
       (※一応断っておくが、筆者に信仰は無く、心理云々もいかがわしいと思っている。
          その心理療法については階級的に無縁という事もある。)
    人の行為は、その生から生じる問題を解消していこうとする (例えば飢えを満たす
      といった様な) ものであると思うが、その日々の色々な積み重ねの中では、解決し
      切れず残っていくものがあるだろう。そこで様々な事が試されているのだろう
      けれど、その中には当然、自身が在るという事、経験や意識自体を操作しようと
      するものがある (多分、注意の操作という事になると思うが)。
    それに交差して、行為への絶望または警戒のようなものがあるのかも知れないが、
      意図や思惑からは距離を置き、なるべく余計な事をしない、最小限の行為で済ま
      せる、成り行きや自発性に委ねる、などといった指向(嗜好)が、掛け合わさった
      所で出てくるようなものがあり、そういったものがここでの対象である。
      それは、意識であろうとする行為、意識に留まろうとする行為、と言えるような
      ものと思う。
  もう一つは、上の様な技法としてでなく、人が自ずと普通に行っている事としてもある
    だろうという事である。それは例えば、行為(作業)から離れて緩んでいる時の状態と
    してありえるのではないか。あるいは、苦痛によって気付かされるようなものである
    かも知れない。また、自己というものが追い込まれて落ち込む所、己のものと思う
    ものを次々と失って最後に残る所、世界から撤退し縮小した自己の在り様、といった
    ものであるのではないかと思う。

意識であることは、
  感じられている感じ、現れている現われ、そのものであり、あるいは、それらへの
      気付きである、と。
  ややこしい言い方をしなくても、自身の意識に気付く事ができるものと思う。
    例えば、休憩したり、気を抜いたりすることによって、それに気付かされたりする
      だろう。あるいは、今、何が感じられているか、何が訪れているか、何が現れて
        いるか、などと問う事によって。
  ただし、この意識であろうとする事は、同じ言葉を使った別の指示、例えば、
      意識的でいろとか、注意していろとか、自覚しろ、などという事ではない。
    これらは、何か特定の事についての点検・作業指示であったり、行動の意味とか結果
      とか及ぼす影響とかへの、思考を求めていたりする。
    観照と言われるもの、または、先入観や観念的操作をまじえずにあるがままに眺める
      などと言われるものと、同じかも知れないが、ただし、今の眺めでない別の眺めを
        得ようというのではない。今の眺めが、先入観によって作られていようと、
        どうであろうと構うことではない。
      また自分を客観的(第三者的)に見る、眺めるというと、それは思考判断の仕方の
        問題なので関係ないし、自己観察と言った時も、観察結果の報告が要求されて
        いるのなら無縁の事である。しかし人がある言葉で何を指しているかは、よく
        分からない所があり、主観的と言って、感情的行為の中に没入している事を
        言い、客観的と言うのが、見ている事・意識を指しているかも知れない。
  また静止が求められるのでもない。
    意識に現れるもの、対象は、移り変わっていくだろう。(例えば瞑想のようなものは、
      対象を固定しようとするかも知れない、それに何か効果が期待されているのだろう
      けれど、ここでの問題ではない。)対象が一時的に固定されていようが、移り変わ
      ろうが、成り行きに任せれば良い。また固定しようとするなら、その時は、何が
      起きるかを見ていればいいかも知れない。
    外面的な(身の)静止についてもまた、体を動かしながらであれ、何かしながらで
      あれ、関係はない。何かに注意が向けられた時、体が止まる事もあるだろうし、
      体が動いている事を含めた事に注意を向ける事も出来るだろう。
  しばらく、その意識(の自覚)に居続けてみる、留まろうとしてみる。
    問題になるのは、自覚的な意識は中断されるだろう、意識は途切れてしまうだろう
      という事である。この時、移り変わるのは、意識の質というようなものであり、
      多分に非自覚的な意識による作業(仕事)へ移行していく。 (作業へ入り行くという
      のは、対象へ向かう、入り込んで行くとも言えるだろう。)
    しかしその諸作業の方が、生の主要な部分であると思われるので、仕方ないこと
      である。 (もしかしたら、その作業が、何か修復的な効果を持っている事だって
        あるかも知れない。)
      気付いたら、戻れば良い事であり、例えば今為されている作業がもたらしている
        感覚などが含まれているであろう意識の方へ戻ってみる。
    考えてはいけないとか、心的な活動を止めるとかいうのではなく、それらが
      もたらす感じ、起きているという事、それらへの意識があるかどうかの問題である。
      自動化されている動作や、簡単な作業では、自覚の中断は起きないかも知れない。

意識は、行動を妨害するか。
  知覚は行動の制御の為にあるとしても、過剰な意識や注意は、邪魔になる、自然な
      動きを妨げる、干渉となる、撹乱させる、だろうか。
    注視は動作を凍らすと言えば、これは他人の視線、批判や非難、貶めようとする
      意思、が想定されている。
    意識して行為しろとか、注意しろとか、自己監視とかは、
      何か指示を含み、行為の変更が要求されている、あるいは、逐一照合しチェック
        していく作業であり、意識そのものの問題ではない。
    どのように行為しているかという問いが、それを仕損なわせる(出来なくさせる)
      と言うと、それは、意識でなく、説明を作り出す作業が障害なのだろう。
    むろん単に2つの事を同時に行う方が難しいという意味では、または、リソースの
      無駄遣いという意味では、妨害かも知れない。
    注視し続けると、文字が見慣れぬものに変貌してしまう(相貌が崩壊する)という
      現象があるそうだが、執拗に行為を意識し続けることが、同様な認知の崩壊を
      引き起こさせるとか?。 しかし意識でいようとする事は、同じ対象を意識し
      続ける事ではないし、崩れる前に飽きて勝手に、他の対象/感覚に注意は移って
      いくだろう。
  過剰な意識は、神経質を生み出すか。
    どうという事もない事の中に不快な要素を、数え上げることになるとか、あるいは、
      大した事でも無い事を、拡大し、大げさなものにしてしまうような作用がある
      だろうか。例えば、痛覚を過敏にさせるとか、無視できるものを耐え難いものに
      変化させてしまうとか。(同一対象への意識は長続きしそうもないとか、先の
      崩壊などとは、矛盾する。)
  過剰な意識は、自己愛撫か。
    執拗に意識に立ち返ろうとすることは、自身に触れようとすることだろうか。
       (こういうのは、ある種の心理学派的な発想だと思うが、自己への参照は、自身を
        撫でること~ストローク、マスターベーション~なのか?)
    確かに意識にあるものは、外的なものより、身近な感覚や、心的印象や、思考など
      内的なものの方が多くを占めていると思われる。 (外的な知覚は、意識にはあまり
      留まらないような気がする。単なる知覚としてではなく、その意味や、それへの
      対処の方へ向かっていたり、内的な印象や気分として感じ取られるようになって
      いたりするのではないか。)
  意識は、人を生から隔離するだろうか。
    行為の主体とは言えそうもない意識を、生の中の幽霊のようなものである意識を、
      自分自身と錯覚することで、生きていく事から隔てられた傍観者へ、離人症的な
      在り様へ、人を追いやるだろうか。 (しかし仮に行為の主体ではないとしても、
      受苦の主体ではあるのではないか。また生の充実というようなものがあるとしても、
      それは意識を通してしか感じ取られることはないだろうし。)
  それら問題が起きている所に、意識は常に居るのだから、犯人に仕立てられ易いとか、
    また目の前で起きている事が、目を開けている事によって発生しているなどとは
    言えない、などという反論も言えるかも知れない。

意識は、意識するという行為か。
  注意(意識を向ける事)と言い換えも出来る。
    そのような能動的な言い方でなく、「感じ」を受け取っている、~が訪れている、
      ~に気付く/かされるといった、受動的な表現もある。
    意図的(随意)にする事が出来る(あるいは、出来ると思っている)が、多分大部分は、
      意図せず、ただ起きている事であるだろうか。
    意識の内容(思考やイメージ)を操作すれば、意識は変化する。これは一旦、意識から
        離れて、作業へ入り込む事で、結果的に意識が変更されるのだろう。
      また内容の操作である行為を止める事で、意識が浮かび上がるという事もある。
  この意識をよく見てみようとする、捕まえようとする事は、
    意識自体を意識しようとする事なのだろうか。意識がどういうものなのか見ようと
      しているのだから、当然、意識への意識だと言い換えられるが。
    この時、それが(自身が)意識である事は知っているのだが、
      意識されているもの・感じ取られているもの(つまり意識内容)が、意識そのもの
      だと、はっきりとは言えないようにも思える。 (意識へ意識を向ける、というのは
      うまく成り立つのか、よく分からない。)
      意識を向けている事自体の中に、すでに意識している事への自覚が含まれている
        ような気もする。

意識に現れるもの(意識されているもの、受け取られているもの)は、
  諸々のものごとではあるが、その中に、外界と自分がある。例えば外側と内側の二重の
      円や扇などの図として思い浮かべられる。
    この意識中に在るのは、意識されているもの(対象)であり、その中で自分と括られる
      物事があるとしても、それも意識の対象、意識への現れでしかない。
  では、現われを受け取っているのは何者か、意識している者・意識する者とは何か、
        円や扇の中心、収斂する所、つまり意識の中心は、何か、などと。
      自分とされる物事も、意識の対象でしかない時、対象や内容ではない見る者である
        自分とは。
    こういうのは、言葉や図式に引きずられて生まれる謎なのだろうか。別に、意識自身
      が、受け取っている者だと言っても、構わないのではないか。
      実際に諸感覚を受け取っている、使用しているのは、それぞれの作業過程では
        ないか。意識を通って、その向こうに作業している(生きている)者が控えている
        のか、と考えたりもする。
    意識にはただ様々なものが現れていくだけであるのなら、また、意識する何者かを
      特定できないのであれば、その空虚な中身のない存在は、他の意識と、どうとでも
      取り替え可能なものだと言えてしまうかも知れない。(魂のように取り出してみても
      中身や個性は持たない。)

行為している時(何かしている時)、
  おそらくは意識はあるのだろうけれど、その意識は、ことさら意識されない。(無意識
      といってもいい場合もあると思われる。)
  何らかの行為の中断のようなものが、意識自身への気付きをもたらす、と
    言えないか。行為へ向かっていた意識が、自分自身へ向けられ、意識(自覚)が
      際立つ、と。
    強い感覚や、行為への飽きや疲れ、迷い(判断と行為のソゴ)、などといったものに
      よって、余り意識されていなかった意識が前面になる。
      あるいは、ちょっと休めば、気を抜けば、意識が、意識として浮かぶ。
  意識(の自覚)に居続けてみる、留まろうとしてみても、
    やがてというか、すぐにでも、それは中断されることになる。
    考え事や、作業(仕事)の中に没入し、自覚的な意識は、失われてしまう。
    それは、意識を失ったのではなく、自覚が減少したとか、作業の背後に隠れたとか
      いった事かも知れないが。
  例えば、思考は、夢想に近いものがある。寝入る時、考え事がいつの間にか、
      自立的(勝手)な運動を始め、無自覚な夢に近いものに変化している事を知る時が
      あるが、考え事自体が、そのような夢想の状態と同じではないか、(自覚的な)
      意識から見れば。
    ある意味、気を失っている事に近い、特に活発な思考が起きている時に。
      意識自体に気付いているというような悠長な状態では、思考の速度について
      行く事が出来ないのではないか。意識自体への気付きなどという無駄な事は、
      作業時には余計な負担であるかも知れない、と。
    そのように諸行為は、意識とは別のところで動くのではないか。
  一方、感情は、多分その文字の印象とは違って、感じられる情感・気持ちなどといった
    ものではない。感じられる為にあるのではなく、作業の動因として、力としてあり、
    人を動かす為、行動に駆り立てる為にある。だから、それを意識している事、感じて
    いる事に留まるなど、難しいのかも知れない。

行為しようとしているの(意思・動機)は、意識ではない。
  意識が、それを知るのは、事後であるか、痕跡であるか、思考としてか、或いは
    知らされもしないかであり、動因は外にある、だろうか。
  動いている・生きているのは、意識ではない、と。意識は、生に対しては部外者として
    ある、と (部外者ではあるが、結果としての苦痛~だけではないが~を受け取る)。
    でないにしても、生きている事の、主要ではない、ほんの一部が、意識ではある。
  とは言っても、動機である欲求は、感じられる(意識される)。この時、意識を
    行為者(主体)だと言えるのではないか。
    強度のある欲求が感じられる時、意識(受苦者)は、その苦痛から逃れようと欲する
      行為する者であると。しかし、その欲求も苦痛も、勝手に向こうから訪れた、
      押し付けられたものと捉える事も出来る。
    また、それ程のものでもない日常の動作においては、欲求があまり意識に上らず、
      充足への行為が自動化されていたりするかも知れないし、単純に欲求とその解消
      といった図式では言い表せない行為では、なぜ、そうしたのかさえ分からない
      場合も多いだろう。
    行為自体は、多分意識のあずかり知らない所で動いていく。それは、例えば我々が、
      体の中を自分で制御しているのではないのと同じ意味においてである。時に、
      その初動が欲求として意識に上ったり、たまに中途経過が知られたりする、
      といったところではないか。
  意識は、受け取る事と、動く事の間にあるとしても、動く事(行為)との間に、その
    ような断絶がある、目や耳は有っても、手足が無い。(知覚や認識も、行為のような
      もので、意識からは遠く、ただその結果を見せられているだけではある。)
    ここに純粋な被害者を見て取れる、どこにも行き着く事のない受苦の牢獄で不明な
      刑罰を受ける者。片方に、加害者、悪者として、行為する者、生(という装置)が
      ある。意識は訳も分からずただ、生に随伴させられ、当事者だと錯覚させられて
      いるだけだと。このように意識を取り出してしまうのは、病的だろうか。

で、ここにこだわる事に、何か意味があるのだろうか。
  そこにあるのは、例えば、見えている、そのままのものでしかない。
    説明しようとすると、ややこしくなるにしても、そこに特別なもの、価値在る
    ものはなく、大概は既に知る所のものが、いつものようにあるだけである、
    といったところではないか。
  それが何をもたらすかについて言えるような知見など持ってないが、
    何をする事であれ、1つには、退屈への対処ではある。また、まやかしであれ
      何か重要な事をしていると思い込んでいれば、貶められる事からの救いになる。
    何かをしようとしたのは、多分それについて思い出したからであろう。そこには、
      その諸観念の背景や文脈が後ろに控えていて、それを取り込んだ時の状況や気分
      もまた再生されている。としたら、それも効果だろう。
    仮に何か療法的な効果があったとしても、万能であることはないだろうし、まして
      宗教家の言うような救いに関わるなどとは考えられない。それでも何かあるかも
      知れないと思うのは、ここが直接的に自分が在る所だと思えるからである。
  如何なる事も信用できない、どんな行為も妥当とは思えない、何をすべきか
      分からない、あるいは為す術もない、判断も行為も成立しないし不能である。
    そういった状況で、戻るべき、立てこもるべき場所、最終的に残る、あらわに
      なってしまうであろう最後の場所、あるいは、そこから出て行く事が出来ない
      場所、どのような解決も訪れる事はないとしても、そこに立ち返り続ける他ない
      場所、としてあるだろうか。 
  しかし、そのように意識を抽出する事は錯誤ではないか、精神の活動の一断面を静止画
    として切り出して見せているだけで、実際に成り立つ事ではないのではないか、と
    いうように疑わしい。実際にあるのは、感じられている・受け取られているものだけ
    であり、そこに妙な分別を持ち込んで説明を作ろうとするから、生じる迷いだろうか。


§参考など
宗教や神秘主義では、
  ラム・ダス「ビー・ヒア・ナウ」という本の中の、瞑想か修行法かを羅列的に紹介
    してある所で、どのように書いてあったかは忘れたが、四六時中、自分を見続ける
    というようなのが紹介されていた。(そのような修行があるのを初めて知ったのだが、
    私の感想は、これは頭で生きるようなものではないか、人を離人症にさせるような
    方法ではないかだった。)
  それからしばらく後で見たものであるが、ケン・ウィルバーという人の本の少し抜粋したもの。
     (ずいぶんと、ご大層な物言いではあると思うが。)
  上座部(小乗)仏教には、ヴィパッサナー瞑想と言われるものがあるそうだ。

心理療法では、
  河野良和の内的注意集中 この抜粋した引用を見よ。
    ただ"感じ"という事のみに突き詰めた方法と言えるだろうか。(何か効果があるか
    どうかは私の知る所ではない。)(これを知って、宗教などの言う観照というのは、
    人を生から隔たせるようなものではなかったのかも知れないと思った。)
  ジェンドリンの体験過程論、フォーカシング
    問題事が一つの感じられるものとして現れる、それには感じられる意味がある、
    それが言葉などに言い表される事によって変化して行く、というような事だと
    思われる。感じることに何かあると、独自の運動があるのかもと思わせる。
     (が、人として欠陥品かも知れない私にはそのような事は起きないので、信じる
      事は出来ない~つまり、そのような事が起きるという錯覚もあるだろうと。)